★大正天皇出生の時代背景



★大正天皇出生の時代背景

 大正天皇、大正時代へ至る前に、どうしても素通りできないのは、大正天皇の出自について....。
 
 大正天皇の生母は、柳原愛子で、明治天皇の女官

 柳原家は鎌倉末期から続く家で、戦国時代には武士に所領を取られて因幡(現・鳥取県東部)の領地だけは残ったため、京から因幡へ下向して生き延びた一族で、江戸時代は武家伝奏や議奏などの要職に就く人もいた。議奏は当番制だが、他の高官よりも天皇の日常生活に関わることが多く、侍従よりももう少し政治よりの役職というポジション。
 そうした家系に生まれた愛子は、11歳のとき仕え始め、掌侍(しょうじ)、権典侍(ごんのてんじ)と昇進していった。掌侍は皇后の世話役、(権)典侍は宮中の女官たちのトップで、江戸城の大奥でいえば掌侍が御中臈、典侍が御年寄にあたる。

 愛子は三人の子供を産んだが、成長したのは後の大正天皇である明宮嘉仁親王だけだった。

 明治天皇の皇子女 亡くなった10人は、死産を除いて、すべて慢性脳膜炎であった。大正天皇自身も誕生後まもなく脳膜炎様の病気を患い、その後遺症に苦しんだ。

 男子は大正天皇を除いてみな夭折した。
 
 一説によると、明治天皇は梅毒持ちで、それが、皇子皇女の脳隨炎の原因だったのではないかと言われている。
 梅毒もちか、、、あの蠍座に土星、天王星、ウィルス疾患もっててもおかしくないけど。下品だけど、精力は旺盛そう。

 しかし、とりあえず、公式では、「脳膜炎様病症は慢性鉛中毒症である」との研究成果を発表し。皇子女の脳膜炎様病症は、白粉から母親の体内に入った鉛毒・水銀毒の結果である」と推定された。ウィルス性の遺伝や感染に関しての可能性は排除されている。

 話がそれるので、これくらいにするとして。

 愛子は、臣下として明治天皇に仕え、幸運に 子供を授かったが、当然ながら、妃や皇后になることはできなかった。そして、大正天皇は 身体が虚弱であるだけでなく暗愚だったといわれている。 画像は、13歳のころの見ると....う~ん。13歳?でこれ? という確かに心配になるお顔だとはおもった。

 でも、後天的にいくらでも強化できるので、相当英才教育されたであろうとは思う。
子供のころ才気活発でも、成人したら埋もれていくケースは五万とあるのだから。幼少時代だけでは判断できない。

 愛子にとって20歳で大正天皇を産んだのが最後の出産で、その後も宮仕えを勤勉に続け、43歳で典侍として女官たちのトップに立ち。

多くの新入りを育てた。いわゆる新入りの生活指導...。この世話役は「お世話親」と呼ばれた。

 愛子がお世話親になった人の多くが後々まで感謝をしているあたり、かなり気配りのできる優しい人だったと思われる。

 その一人が大正天皇の皇后・貞明皇后でした
 あとで また書くかもだけど、 大正天皇は、女官に手を付けて妊娠させた。それが後の貞明皇后。

 皇太子時代の大正天皇の妃として貞明皇后が宮中に入った際、愛子は教育係の一人でした。「実の母とも思った」というほど愛子に感謝しておりますから、本当に優しく指導してくれたのでしょう。

貞明皇后はその恩を後年まで感謝し、大正天皇が亡くなる間際には特別に見舞いに来られるよう計らっています。
 一方、大正天皇はある程度成長するまで「母は昭憲皇太后」と教えられていたため、実母が愛子だと知った際、かなりのショックを受けたとされる。

 ちなみに、明治天皇の子女の一覧を列挙すると...。

●稚瑞照彦尊 (わかみつてるひこのみこと、1873年(明治6年)9月18日 - 同日)明治天皇第一皇子で第一子。        明治天皇の初めての子であるが死産であった
       (母の葉室光子(1853-1873)も4日後の9月22日に逝去している)。

●稚高依姫尊  (わかたかよりひめのみこと、1873年(明治6年)11月13日 - 同日)
        明治天皇第一皇女・第二子。母は橋本夏子(1856-1873)。死産であり、
        母も産後の経過不良で出産翌日に死去している。

●梅宮薫子内親王 (1875-1876・第二皇女・夭折 ) 母は柳原愛子(1855-1943)

●建宮敬仁親王  (1877-1878・第二皇子・夭折 ) 母は柳原愛子

●明宮嘉仁親王  (1879-1926・第三皇子・大正天皇)母は柳原愛子

●滋宮韶子内親王 (1881-1883・第三皇女・夭折 ) 母は千種任子 (1856-1944)

●増宮章子内親王 (1883・第四皇女・夭折 ) 母は千種任子

●久宮静子内親王 (1886-1887・第五皇女・夭折 ) 母は園祥子 (1867-1947)

●昭宮猷仁親王  (1887-1888・第四皇子・夭折 ) 母は園祥子

●常宮昌子内親王  (1888-1940・第六皇女)事実上の長女にあたる)母は園祥子  夫は竹田宮恒久王

●周宮房子内親王  (1890-1974・第七皇女) 母は園祥子  夫は北白川宮成久王

●富美宮允子内親王 (1891-1933・第八皇女) 母は園祥子

●満宮輝仁親王   (1893-1894・第五皇子・夭折 ) 母は園祥子

●泰宮聡子内親王  (1896-1978・第九皇女) 母は園祥子 夫は東久邇宮稔彦王

●貞宮多喜子内親王 (1897-1899・第十皇女・夭折) 母は園祥子 

 ↑ いったい何かの呪いか?(実際、そういう説も残っているが) っていうくらい、ちょっと唖然とした。
 ここまで子に恵まれないっていうのは... よほど何か問題が(梅毒説があるとはいえ)あったのか
 実際、無事に育った、大正天皇も幼少のときに、脳隨縁を発症したらしい。

 一夫一婦制を導入したのは明治期だけど、一夫一婦制だったなら、後継天皇の存在は授からなかったことになる。そういう家系...そして女系といわれる所以。男児が育たない、子宝に恵まれない傾向があった。

 側室設けたほうがいいだろうに、なぜなくなったかは、昭和天皇のところで書こうかと思っていたけれど、大正天皇が、娶った、もともと女官だった節子一筋で、ほかの女官と交わらなかったため。昭和天皇は、それに倣った(廃止した)といわている。

 とりあえず、大正天皇のご尊顔と、ご兄弟の系図の画像をUP

 大正天皇(嘉仁親王)は、弟宮の全員と妹宮のほとんどが薨去しており、年の近い兄弟姉妹が少なかった。そのため、家族と接する機会があまりなかった…。

 ということで、
 大正天皇の出生チャートは この次のせます

 わざわざ背景を乗せたのは、人物像も、帝位が短かったせいで、あっさりしたことしか正直知らなかったのだけど、噂以上というか、ここまで、、とは思わなかった。皇統存続の危機が、この時点ですでにあり
 明治天皇も大正天皇も、正妻の子供ではない、嫡子ではないわけで

 明治天皇にいたっては、養子、大正天皇は庶子である。

 皇室典範の第1条には、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と、うたわれている。
天皇の血族の男性しか天皇になれない。 けれど、現在一夫一婦制...

 この先、、時間の問題としかいえない状況で。後宮つくるべきだろう...ときっと誰もが思てるだろうに。結婚制度なんか無視していいから、そもそも導入から100年もたっていないのだ。廃止してかまわない
 と、オラは乱暴なことを思っている。
 結婚制度を 疑問に感じない人たちにとっては、至極当然に受け入れられてきたのだろうけど。なにを手本にしたかわかっているので、個人的には、なくていいと思っている。
 ただ、共同生活における控除とか子供の扶養の問題があるので、法整備はいるのだろうけど。やりようは、いくらでもあると思っている。 そういうの模索する気がないだけで...。

 こんなところで脱線してるんじゃないよ! (;・∀・))

 というわけで、次回は、大正天皇のチャート見ていきます

 大正時代は、大正デモクラシー、第一次世界大戦、
日本はドイツ帝国に宣戦布告、関東大震災、
モダン文化が生まれたこの時代
 日本は激動の時期を迎えていった...

 中では辛亥革命がおわった時期にかさなるこの時代は女性運動も盛んだった。
 資本主義に反対する社会主義の台頭や、
護憲運動、あげたらきりがないくらい、たった15年とは思えないほど実は濃ゆい...

 そういうの含めて、解読していけたらとおもっています。
そりでは小休止(;・∀・))

お読みいただき、ありがとうございます!



Emperor Taisho


コメント

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