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今日は 幕末期まで遡ります
幕末期といえば、江戸時代
江戸時代最期の最終期の天皇は孝明天皇 の御代でした
終始攘夷を望むなか、尊攘派志士らの過激な討幕運動に反対し、妹和宮を将軍家茂に嫁がせるなど公武合体の立場をとった...と言われています。
ちなみに、幕末は大河ドラマでは欠かせないほど、多くの作品で映像化されていますが。
過去の作品において特徴的なひとつとして、 長州藩が主役の作品では 出てこないことが多いのです
なぜなのでしょう。時代背景からいったら気になりますが。
なぜなら、幕末の長州藩士は、天皇を奉じて 大政奉還にむけて動いていったのですから
彼らの崇拝対象の、天皇の姿が、、作品のなかでも出てこないのは 疑問を感じるものの
孝明天皇の生涯、そして何がおこってきたのか その複雑な背景をみていきたいと思います
天保2年(1831年)孝明天皇は、光格天皇の孫として、仁孝天皇の第4皇子として誕生しました。
天保6年(1835年)、儲君(皇太子)とされ、天保11年(1840年)には立太子の儀。
さらに弘化3年(1864年)に父天皇の崩御のあとをうけて践祚の儀をあげ、弘化4年(1865年)に即位を果たしました。
しかし、天皇は この幕末期まで、鎌倉時代以降~700年ほどのあいだ、長い日本の封建社会のなかで表舞台に出てくることがなかった。
ペリーがやってこなければ、黒船来航さえなければ、おそらく、歴史の表舞台に立つことなく 御簾のなかだったことでしょう。
それはともかく、
二世紀近く、政治に関与できなかったはずの朝廷と公家。
京都から動かず、外国事情を仕入れることもできず、政務から遠ざかっていた皇室と朝廷。
この関係が大きく動いていくことになった背景には
黒船そして、 安政の大獄や桜田門外の変と
歴史の教科書にあがってくる大事件が勃発
それでも、
【孝明天皇に倒幕の意志は全くなかった】という点が非常に重要で
孝明天皇は、確かに攘夷派であったものの
それは=倒幕の 図式ではなく
あくまで幕府と力を合わせて協調路線を歩むというものだった。
孝明天皇は穏健派で、譲位にかこつけた戦争や暴力を嫌っていた背景があったということです。
孝明天皇の出生時間はわからないため、暫定で作成しています。
蟹座28度の太陽、山羊座の海王星がオポジション
獅子座の火星と水瓶座の木星のオポジション
が特徴的なチャートですが。
太陽、海王星のアスペクトは、成功者や芸術家、政治家には欲しいというより、確実に持ってるアスペクトのひとつですが、(これがないとヴィジョンを描けない、無能なコピー)
この太陽、海王星にオポジションは、夢の多い人生観の海王星の象徴的なアスペクトのなかでも、最も没我的です。現世的なライフと、精神世界や神秘世界のイメージの世界観に同時に生きているという傾向
天皇という役から考えたら、最適ともいえなくもありませんが、太陽が獅子座0度の水星とコンジャンクション、これ以外アスペクトがないというのは、
この方には なんの権限も実行力も持ちえなかったということをあらわしてもいます
言葉はわるいですが、本当に担ぎ上げられただけ。権力志向もなければ、支配的な意志もない
まさに象徴そのもの
彼は穏健派で、攘夷にかこつけた戦争や暴力を嫌ってたと書きましたが
過激な尊王攘夷派はそれに納得できるはずはなかったのでしょう
天皇は、異人に弱腰の幕府を倒すことを望んでいるという前提で、様々な行動を起こしていきました。
幕末の政局が混乱しやすくなるのは、
「自分たちは天皇の意志を奉じて行動している!」
と行動を起こす人々が、実はその意志とは正反対の行動を取っていることが頻発したからです。
しかも、孝明天皇の意志に背いていた人々が勝利をおさめたため、そのことが隠蔽されがちであり、事態をさらにややこしくさせています。
これこそが、長州主役の大河に孝明天皇が出てこない理由だろう...と推察されますが
長州閥については、再三批判してきたので
いまさらですが、
個人的にこの時代は、本当にあたまに入ってこなかった。まっすぐ読むと混乱する
どうして、こうも動きがおかしいの???
おそらく当時の体制側(幕府)は、もっと ????だったことでしょう。
動乱期というものは、得てしてそういうものなので、どさくさに紛れて
渇望したものが、権力を奪っていく
話がそれましたが、孝明天皇の崩御は、当時の発表は2月3日になっていますが、実際は、1月30日
奇しくも、このグル―プの発足日...(◎_◎;)
チャートつくって、ちょっと驚いた。命日だったのか...
152年前... 無念の死だったかどうか、真実はやぶの中だけれど
実際、暗殺説が昔からいわれているので、 天然痘は、ないだろう。どこかの王族じゃあるまいし
(吹き込んだのは、欧州人か...)とさえ思うくらい
生前
孝明天皇は1863年6月8日(文久3年4月22日)付の中川宮宛の書簡で、5月27日(旧暦4月10日)の石清水八幡宮行幸について体調不良にもかかわらず三条実美らに「無理にでも鳳輦に載せる」と脅迫されたと告白し、同年の八月十八日の政変直後に出されたと見られる日付不明の二条斉敬・中川宮・近衛忠煕宛の書簡では「表ニハ朝威ヲ相立候抔抔ト申候得共、真実朕之趣意不相立、誠我儘下ヨリ出ル叡慮而已」と述べ自分の真意とは異なる勅語「大和行幸の勅」が作成される現状を嘆いている。
その後、幕府・一会桑・薩摩藩・長州藩等の諸藩・公家・志士達の権力を巡る争奪戦に巻き込まれていくと、孝明天皇自身の権威は低下していくことになった。
1865年(慶応元年)、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の意志にあると見た諸外国は、艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を天皇に要求したため、天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許を出すこととしたものの、保守的な姿勢は崩さなかった
これに反する
批判的な人々から、天皇に対する批判が噴出
第二次長州征伐の勅命が下されると、大久保利通は西郷隆盛に宛てた書簡で「非義勅命ハ勅命ニ有ラス候」と公言、岩倉具視は「国内諸派の対立の根幹は天皇にある」と暗に示唆して、「孝明天皇が天下に対して謝罪することで信頼回復を果たし、政治の刷新を行って朝廷の求心力を回復せよ」と記し
孝明天皇のお味方であったとは、到底おもえない。
こうした中で1866年10月8日(慶応2年8月30日)には、
天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める廷臣二十二卿列参事件が発生、
その後薩摩藩の要請を受けた内大臣・近衛忠房が天皇が下した22卿に対する処分の是非を正そうとしたことから、天皇が近衛に対して元服以来の官位昇進の宣下をしたのは誰か、奏慶(御礼の参内)は何処で行ったのかと糾弾する書簡を突きつけている
問題解決のないまま
1867年1月30日(慶応2年12月25日)、在位21年にして崩御。宝算37(満35歳没)
あまりにタイミングの良すぎる死を 発表通りに受け取れなくても 仕方ないだろう
昨年、明治150年記念の式典が催された。天皇陛下と皇后陛下はご欠席なさった
本来なら、祝賀の中心であるべき存在だというのにも関わらず
これが 何を示しているのか... 無言の否定だと 個人的には思っただよ
薩長が やってきたことに 批判的な最大の理由は、
こうした歴史的背景で
穿った見方をしていると思われようと、イデオロギーとか関係なく
おかしい... 心底そう思っているからで
だから、どうのというわけではまったくないけれど
討幕、そして、明治維新は、ある一部の人たちの目的のために達成された
そういうシナリオがあった
そう思っているからなのだけど
みなさんはどうお感じでいるだろう
幕末の 黒船来航とか、維新については、いぜん、フィードかブログでも書いたので割愛しました。
大惑星が移動しているので、 時代背景としては 関わっているけれど
時代に翻弄された孝明天皇は、
本来、明治天皇よりも 日本の近代化の祖として祀られていいはずなのに
異常だと思うのは、
孝明天皇を祭祀する神社を新政府は作らなかったことであり、
しかも
作ることを妨害し、そして出来た神社を冷遇した事実がある。
新政府側が孝明天皇を祀ったのは、1940年(昭和15年)になってからであり、
しかも平安神宮の祭神に加えるという形でした。
それと対照的なのは、明治天皇の祭祀で。
明治神宮が創建されたのは、大正9年11月1日であり、それは天皇没後8年、皇后の没後6年のこと。
オラは個人的に 明治神宮は重視していません
誰になんといわれようと、あの場所の選定はよかった。それは確か。だけど
あそこに魂はない
参宮橋にしばらく住んでいたとき、(目の前が神宮の森だった)
西参宮からよく、なかにはいったけど、明治神宮にはいかず、参宮橋側にある、芝生で日の出を迎えたり
ランチをとったりして過ごした
明治神宮よりもずっと気がいい
某井戸は、怨念をかんじるので近づかない
余談はさておき、
歴史は不条理の上に物語られてきたものだから、いまさらだが
孝明天皇が祀られているのは
愛知県知多郡武豊町にある寂れた神社、玉鉾神社である。そこは、薩長に協力した下級武士そして(岩倉具視など)に暗殺されたかもしれない、孝明天皇を祀る神社である。孝明天皇は、薩長の下級武士たちが中心となった倒幕運動において、最も邪魔な存在であった。
担ぎ上げておきながら....である。
その創建に至る話は異常に思え、孝明天皇暗殺説や明治天皇すり替え説まであるのは当然だとおもう。
「孝明天皇暗殺説は複数あるけれど
安重根の伊藤博文殺害激文に孝明天皇暗殺者は伊藤と明記。英外交官もその噂認めた。という話もあり。 孝明天皇は天然痘ではなく ヒ素で毒殺されたというのが、いまのところ有力です。外国かぶれで、鹿鳴館時代のとあるパーティーで海外からの賓客に、明治天皇を指さしたあと、ジェスチャーを交えて、彼はマリオネット(操り人形)と言い放ったことも記録にのこっている。
そんな人物がお札を飾っていることも遺憾だが」
異常だというのは、孝明天皇を祭祀する神社を新政府は作らなかったことであり、作ることを妨害し、そして出来た神社を冷遇したことである。新政府側が孝明天皇を祀ったのは、1940年(昭和15年)になってからであり、しかも平安神宮の祭神に加えるという形だった。それと対照的なのは、明治天皇の祭祀である。明治神宮が創建されたのは、大正9年11月1日であり、それは天皇没後8年、皇后の没後6年のことである。
この神社の創建を願い出たのは
一民間人である旭形亀太郎という人物で
幕末の文久3年に宮中警備隊長になり、蛤御門の変では玉座の守備にあたった人
けれども、反発にあい、
長い間認可されなかった。 明治様の父君にあたる天皇だというのに、伊藤博文は反対したということ
正式に許可されたのは、明治32年のことであった。
ただし、祭祀されているのは孝明天皇だけではなく、神話時代の神が含まれている....。
これをいうと、もう一言いわずにいられない。
靖国神社の元は、東亰招魂社(社は本来は旧字体)
この招魂社は、長州由来...(長州の桜山招魂社)
靖国神社は、明治2年(1869)6月29日、
明治天皇の思し召しによって建てられた東京招魂社が始まりで、
(戊辰戦争の官軍側戦死者を祀る神社として東京招魂社が創建)
明治12年(1879)に「靖国神社」と改称されたのが、いまに至っている
複雑な背景ともいえるし、小賢しいともいえる
どこまでも クーデターを正当化したかったのだろう
という、私観たっぷりの 解説をしてしまいましたが
この件は、きっと みなさんも いろんな思いがあられると思いますので、
ぜんぜん書き込みしてくださいね
明治維新は おわっていない、どこかでそういう気がするのは
歪められたもんがあるからだと思っている
チャートは孝明天皇の出生図、出生時間が不明
二枚目は崩御された日
PS: この崩御した日の三重円を見ると
出生の冥王星に、タイトに海王星がコンジャンクション
そして、天王星に木星が合
冥王星に海王星が合...というのは 現世的な作用ではありません。
御柱になられた...そういう象徴事象
個人の意志とか、そういうたぐいのものではないので
これは、追記で書きますが
とても 言葉になりません
グループにUPした記事ですが
日本人なら知っておくべきだろう
とおもって、UPしました。
追記は 公開はしないと思いますが
ここから近代化ははじまっていったのです
まさに象徴図
この 海王星、冥王星のコンジャンクションは
孝明天皇のはトランシットの関わる合なので
個に対するものですが
大日本国憲法図で現れる
ASCの 日本の意志である1ハウスに
双子座で海王星と冥王星がコンジャンクションしています
こういう符号は、こういうことだったのか
と自分も、チャートみて感じたことなので
やはり 伝えおくべきだろうと感じました
日本を取り戻すという本当の意味は
まったく異なる次元での はなしになります
本来、天皇は直々に軍を率いない。
軍の統帥は節刀を預けた将軍の役目でした。
伝統的に天皇は軍事・行政・司法に口を出さない存在として
神事に携わってきたのですから。
本来の伝統と、薩長が、持ち出した(原案は英国のシナリオ)
天皇統帥権とのズレ、勘違いがあののちの悲惨な戦争の惨禍を悲劇を招いた
いまだ 根源的なズレを利用したことへの反省はなく
日本の魂は宙ぶらりんな状態です
平成は、これの前に元号チャートから解読しましたが
次の御代で、元号改定で、新しい幕が明けることで
閉塞感から解き放たれていくでしょう。時代の変容も加速度的におこっていくとおもいます。
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