環境から押し出されるということ… 水瓶座時代の生き方のススメ

 


大谷翔平の第一子が無事に出産されたようで
SNS系がにぎわっていた
まぁおめでたいことだよね
 母子ともに無事でなにより
そんなことより
しかし これで今日のニュースがまた。。。って思うと
ご本人の方々には関わりがないけれど
 もっと重要なこと報じてもらいたいとおもう
 いいたかったのは
赤子の足の裏の画像がうつってたので
画像ひろってくるね
ふと思ったのだ
環境から押し出される
赤子にとっては
胎内という
 ゆりかごのなかから
突然
大気に晒されて
 異質なんてもんじゃないから
オギャーと泣くんだ
苦しいからだ
 いきなり肺呼吸にかわるわけだし
 生まれることを 苦しみと書くと
非難されそうだけど
慣れ親しんだ環境からの離脱の苦という意味なので
人生においても
幾度も 体験する
たとえば住環境
学校から社会へ
それまでの環境から離れ
一からはじめることは
楽しいことだらけってわけじゃない
苦しいことだらけよりは
楽しいことのが多いと思うけれど
それは
自発的に選択したときのみに得られるもので
強制的な学業(義務)とか
 組織に従属するのも
望んでのものでない場合
 ハードなストレスにさらされたり
場合によっては望んでいたにもかかわらず
期待を裏切られての失望といった苦悩が待ってることもある
そういうとき
また自発的に選び直す
すぐには いかないこともある
または どうしてもやりたくても
 どうしていいかわからないことから
 何年もかけて 学んだり経験を積むこともあり
その過程のなかでは
 もう諦めてしまおう
最初からムリな話だったんだ
 なのに。。。。意地をはってしまった
 とか 自分を説得し
 やめようと考えたり
人は なぜか 挑戦よりも安全を求めたがる傾向があり
 その間で 矛盾のなかで揺れる
そういうのも 大切なプロセスで
なんども潮が満ち引きするように
 まだ大丈夫! もうダメかもしれないと
 極振りするような はげしい 煩悶をすることもあるだろう
そんな経験ないよ
っていう人が大半かもしれないので
万人がそうではないにしても
産みの苦しみという言葉があるように
壮絶な 経験
産んだことない身で何いってるか!っていう話だけど
作品をうむことも
 難産だったとか いう比喩表現をされたりするように
かんたんにできてしまったことが ウケることも多いとはいえ
どうしてもっていう こだわりとかがあると
 難産だった なんて話はゴロゴロある
構想から 10数年とか何十年もかけてとか
たとえば有名な作品だと
ダンテの「神曲」
彼は1302年に故郷フィレンツェを追放された後、
流浪の生活のなかで着想し1307年頃から書き始め、
最晩年に完成させた
彼の出生は1265−1321
正確な誕生日はあきらかではなく
神曲のなか
天国篇第22歌の第109行から第117行にその手掛かりが見られる。
「わがかの金牛に續く天宮を見てその内に入りしごとく早くは汝豈指を火に入れて引かんや
あゝ榮光の星よ、大いなる力滿つる光よ、我は汝等よりわがすべての才の出づるを認む
我はじめてトスカーナの空氣を吸ひし時、一切の滅ぶる生命の父なる者、汝等と共に出で汝等とともに隠れにき…
おそらく
生命の父たる太陽が黄道十二宮の金牛宮に続く双児宮のもとに懸っていた間(5月半ばから6月半ば)
双子座の太陽の生まれと考えられている
社会背景をかくと長くなるので割愛するけれど
『神曲』三篇の執筆を始めたのは1307年頃
ダンテが幼少期に出会い、その後24歳にして夭逝したベアトリーチェを、『新生』につづいて『神曲』の中に更なる賛美をこめて永遠の淑女としてとどめ
天国篇を書き始めたのは書簡から1316年頃と推定され
さらに完成したのが
死の直前の1321年
彼がフィレンツェを追放されていなかったら
神曲は生まれていなかった
あいする女性を永遠に失っていなければ新生はなく
天国編の完成は死の間際
13世紀の北部イタリアの
ローマ教皇庁の勢力と神聖ローマ帝国の勢力が対立
そして
フィレンツェはグェルフィ党に属しており、ダンテもグェルフィ党員としてフィレンツェの市政に参画
1289年には、カンパルディーノの合戦にて両党の軍勢が覇権を争い、血みどろの戦いを繰り広げ
この時ダンテもグェルフィ党の騎兵隊の一員として参加している
その体験は
『神曲』地獄篇第22歌の中に生かされており、凄まじい戦闘の光景が地獄の鬼と重ねられている…
『神曲』は歴史に名を残している名作で
その作品価値(内容)にばかりスポットがあたるけれど
ダンテの血と汗と涙の結晶…
たしか
彼は
地獄編のまえに 戦地にもいってたはず
仲間も多く失っているうえに
 やはり戦争の悲劇と悲惨さは 彼の人生観を変えたに違いないから
そしてそれがなければ
あのような重厚な作品にはなってなかっただろう
大谷翔平のベイビーの話から
とんでもなく 話が飛んでしまっているけれど
生とか死は
 人生で一度しか味わえないけれど
その人生の間には 人はなんども 行きつ戻りつするかのように
生と死の間のような 感情体験をしたりする
 環境からの押し出し
それは
 ある意味では
 生への不安や恐れ
 どう生きていいかわからない
 そういう悩みを 
これからもっと経験するかもしれないけれど
実はそんな大変なことではなく
 よくあることだと思えば
 そこでの体験や経験、感情の深みは
 人間的な成長、魂の器を大きくし
いつか何かに生かされる
あるいは誰かに託すことで
人は その意味をとわなくても
意味のあることにつながっていく
おととい芸能人の男性の不慮の事故も
彼は 居場所のなさをかんじていたとの記事があったので
居場所なんか 若いときも
中年の曲がり角でも なんども 見失うことは起こり得るけど
深刻に受け止めすぎないでっておもったのら
苦楽というくらい表裏一体で
どうにもならなくなったらプラプラしていたっていい
それくらいの 寛容さがないと
人生100年とかいってるけど
もう 後継世代は 身体的に 難しかろう
ストレス社会でやられすぎてるって思うけど
それにしても
 息がしづらい気がしたら
積極的に離れたらいいのら
押し出されることまおれば
 先に離脱することがあっても
ゆくべきところにはたどり着けるようになってる
魂のそれぞれのテーマには
ふたつと同じものは存在しない
近視眼的な 社会のありかたには
ほんとうに
残念に思っていたので
人生で寄り道したり
 よくわからないまま 佇んでいたり
絶不調のときは
 蝉の幼虫にでもなったつもりで(4、5年土のなかで過ごす)
そうい期間が 無駄なんて 誰もいえないのに
他人がどうとらえようとも
時間の過ごし方は その人のもの
 経済価値でしか自分をはかれなくなったら
ある種の 病
 健全性という意味で そういう時期があっても
それがすべてではないことくらい わかっていないと
大病して早逝しやすい
本当のことだ
 そんなのに巻き込まれないで
水瓶座時代の冥王星は
最初こそ 手探りでも
だんだん生きやすくなっていく
そういうことが伝えたかった






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