余命




命には限りがある

当然のことなのに

それについて話題にすることは

タブー視され

語らないことが

長いことよしとされていた気がする


身内に

長くない者がいても

それについて宣告を受けていても

家族間でも語り合わない


そして言ってはならないことであった


高校時代

生まれてはじめて人の死に直面したとき


それよりも前に

その時が訪れる日は近いことを

両親の会話から盗み聞いて


ひとりで大泣きして枕を濡らし

それでも、受け止められなくて


私は16歳の5月


祖父の死とともに

鬱になった




命について


もっと教えられていたならば

離人症になりこの世のすべてを

むなしく感じて

虚無の世界に陥ることもなかったと思う



そして自分も一日も早く

あちらの世界へ還ろうと

試みることもなかっただろう・・・・・




誕生とは死の宣告を受けるのと同じ


いずれは訪れるその時があるからこそ


命が・・・死すべき運命にあるからこそ

生をいかに大切にするかを考えられる



そしてそんなことすら忘れてただ生きられるようになる・・



健全な状態ならたいてい

忘れて生きている

それでいい

それがふつうだ


しかし、潜在的な恐怖があると

それは よろしくない


潜在的な恐怖は


正しく生きることの妨げになる


恐怖から逃れるために

あやまったエネルギーの使い方をしかねないから




そして潜在的な恐怖が強いと

その集合体のなかで


それについて語ることは

タブーとされるのだ


その弊害については

まるで

そんなことなど存在しないかのように

誰の目にもとまらない



まだ経験のない未熟なうちは

未熟だからこそ

本当は語ってあげるべきだと思う・・・・


そうすれば


それがなんであるのか

その者なりに理解できて

乗り越えてゆく助けになるのではないだろうか・・・



私は乗り越えるまでに

10年以上の歳月を費やした


それは無駄であったとは思わないけれど


存在の消失

存在への思慕・・・・・・

行きどころなく彷徨う

自分の思いを


どうにもできなかった



あのような思いは


他の誰にも体験して欲しくはない


だからおそらく


私は 


語っていきたいと思うのだ


生を肯定するために


単純な命の大切さ

なんてことを扱うのではなく


もっと根源的なことを・・・・



死後の世界なんて

誰も戻ってきていない以上


存在するなんて

まやかしを信じることはできないし


それが受け入れられるくらいなら

おかしくなりはしなかった・・・・



祖父の命日が近づいてくると

どうしても思い出してしまう





あれから・・・20年の歳月が過ぎた



自分なりには真摯に向きあってきたつもりだけど



自分についてのことは


今度のお墓参りのときにでも


じっくり語ってこようと思う・・・・




















































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