✨激動の大正時代と大正天皇~Emperor Taishō~



★激動の大正時代と大正天皇


 大正天皇は、1879年(明治12年)8月31日、明治天皇の第三皇子としてお生まれになった。先に生まれた皇子はともに夭折しており、前回、出生の背景で書いたように、
 明治天皇と皇后美子との間には皇子女がおらず、明治天皇と複数の側室との間に誕生した弟宮の全員と妹宮のほとんどが相次いで薨去しており、大正天皇のほかに男児はなく、事実上の皇太子となった。
 
 生母は典侍・柳原愛子。明宮嘉仁(はるのみや・よしひと)と命名された。
大正天皇は、生来健康に恵まれず、生まれてから年が明けるまで重度な病気を患ったとされる。侍医の浅田宗伯によると「御分娩あらせられた時に湿疹を認めた」..と記録されている。

 誕生の翌年には、皇室の風習により、中山忠能の屋敷に里子に出され。
 1887年..8歳の誕生日の時に儲君となり、同時に皇后・一条美子の養子となった。
 (儲君は皇后の実子とされる慣例があったため)

 そして、東宮侍従の小笠原長育より礼法教育を受ける。
 小笠原長育より礼法教育を受けた際には、「母は皇后・一条美子である」と聞かされて育ったため、成人後に「生母が柳原愛子(幼少時からお側でお使えしていた女官)」と言われてもなかなかそれを信じなかったという。


 大正天皇のチャートを見ると、出生の乙女座太陽に天王星がコンジャンクション。
魚座の木星とオポジションを形成している。

 太陽と天王星のコンジャンクションは、オリジナリティや独立性、人と同じでは満足しない個性派を生むアスペクト。太陽は父親の象意でもあり、父の独立願望の顕れ(父が体現できなかったこと)としての意味もある。 突発的で突飛な行動や、意表を突くことを好み、周囲を翻弄することも...。
 
 実際、大正天皇は、明治天皇と異なり、自らが周囲に影響を与える立場にいることを極力打ち消そうとしたり、皇太子時代には、沼津御用邸から自転車に乗って近くの家を突然訪問したり、宮城への帰りの道筋を予告なくわざと変更するなどの行動が目立ったという。
 迎合や従属を嫌う、天王星の風変りな体質がよくあらわれている気がする。
シンプルに言えば、立場を十分に承知の上で、周囲がどう動くかを心得た上で、御大層な対応をされることを極端に避けようとしていた気質は、天皇になってからも失われることはなく
 天皇になってから「大正流」を貫くことができず、体調を崩したという侍従の言もある。

 太陽木星のオポジションは、楽観性やヴィジョン。思いつきや活力を大きくこえた可動をして、あとで大きな負担になることがあったとしても、損なわれない発展性の持ち主。
 木星、天王星にオポは、改革的な意志や新規的な発展性への欲求をあらわし。新しいアイデアや計画のあめに周囲の多くの人を巻き込んでいく、実行力のあるヴィジョンに突き動かされるタイプ。地味で平穏な暮らしには本来向いていません。


 1887年9月に学習院に入学した大正天皇。学習院時代には侍従にせがんで軍隊の背嚢を背負って登校し、
この「軍隊の背嚢」がランドセルの原型となったという逸話が残されている。
 しかし、健康に優れず学業に集中できなかったこと、学習院の厳格な規則に馴染めなかったことなどから、留年することもあった。そして1889年(明治22年)からは熱海への保養が毎年の恒例になった。

 1889年明治22年に、嘉仁親王は皇太子となり、立太子礼を挙行する。他方、学習院での学習は一向に進まず、乗馬などに進歩があった一方で、抽象的な思考を要する理数系の教科を苦手とした。

 1894年(明治27年)には、健康状態から学業を続けることが困難であるとして、学習院を中途退学。
 その後は赤坂離宮で数人の教師によるマンツーマンの授業を受けた。
 この時に帝王学の一環として重視された教科は、フランス語、国学、漢文であり、特に漢文を教授した川田甕江からは大きな影響を受け、漢詩作成を趣味としたという。

 「とくに漢詩への造詣は深く、
 後に(ご結婚後)健康が回復してからの嘉仁親王(大正天皇の皇太子時代)は日本各地を行啓し、その範囲は沖縄県を除く全土であった。嘉仁親王は、巡啓中、興に乗れば漢詩を創作している。
 明治天皇や昭和天皇が和歌を好み多く詠んだのとは対照的である..と評されている。」



 1897年(明治30年)8月31日、皇太子嘉仁親王は満18歳となり、貴族院の皇族議員となる。成年式は(祖母の英照皇太后の喪中のため)翌年の1897年(明治31年)に延期された。

 1900年(明治33年)5月10日、嘉仁親王は九条節子(さだこ)と結婚した。このとき妻の節子は15歳。
 節子は女官のひとりだった。
 この早い結婚については、「病弱の皇太子に早めの結婚を」との意図があった旨を『明治天皇紀』では記述しているが、両親から引き離されて寂しい幼少時代を過ごした親王にとって、結婚は非常に嬉しい出来事だったようである。

 そして、結婚後は父の明治天皇とは対照的に側室を置かず一夫一妻を貫き、子煩悩で家庭的な一面を見せたという(大正天皇と節子は幸いなことに4人の男子に恵まれたため側室は必要なかったという事情もある)。皇室における側室の制度が法的に廃止されたのは後の昭和天皇の時代であったが、側室そのものを事実上最初に廃止したのは大正天皇であった。

 という上記の記述は、現実だが、太陽、天王星のオポジションは、気の多い振る舞いとして見ることが多く。結婚後の離婚に至るケースのなかで最も多いアスペクトでもあったりする。
 しかしながら、大正天皇は、ほかの女官と交わることもなく、事実上、後宮的な存在が意味をなくし、住み込み女官の存在が必要なくなった。
 それは、記述にもあり、これの前にも 書いたように、出生の背景が大きくかかわっていると思われる。
母親を知らず、母親と思って慕っていた皇后は、母ではなく、お世話役だった女官が母親だと知らされた幼少期、他に兄弟もなく、みな早逝。 明治天皇は、養育にはいっさい関与しなかった(東宮職の役人に任せきり)。父不在の上に母親も精神的な意味でも現実的にも不在に等しい。なぜなら、公に甘えることは許されず、ずっと距離を保ちながら暮らさねばならなかった心中はいかほどであったろう。
 大正天皇が、節子のみを愛したために、昭和天皇はその姿から、それに倣って慣習を変えてしまった。
 それが、よかったかどうかはわからないけれど、

 ご結婚後の、健康のご快復も、それ以前とは見違えるほど健勝になったように見えたのは
安定した愛情関係が精神的安定と安心をもたらしたことによるものであることは確実だろう。

 いくらでもお相手は持てるのに 唯一の存在を欲しがった...チャートから見ると真逆の欲求。育ちはそれだけ、人を左右するケースでもあると思う。



 1907年(明治40年)初訪韓。嘉仁親王(大正天皇)は大韓帝国を訪れ、皇帝・純宗や皇太子・李垠と会っている。このときの大韓帝国は、被保護国とはいえまだ併合前の「外国」であったため、史上初めての皇太子の外遊ということになった。このとき、嘉仁親王は李垠をたいそう気に入り、その後朝鮮語を学び始めたという。

 また、嘉仁親王は欧米への外遊を希望する詩作を行い、民間でも新聞社説で嘉仁親王の洋行(ヨーロッパ行き)を歓迎する報道がなされた。
 だが、父である明治天皇の反対により洋行は実現されなかった。

 そのためもあってか、次代の長男・皇太子裕仁親王(摂政宮、後の昭和天皇)は1921年(大正10年)にヨーロッパ訪問を行っている。許されなかったことを、子供を通して実現するかのように...。


 

 明治の末期頃には、嘉仁親王はまだ病状が残るものの、健康を回復させつつあった。
 皇太子時代から巡啓に同行するなど近しい立場にあった原敬は、のちに語られる「大正天皇像」とは大きく異なる「気さく」で「人間味あふれる」「時にしっかりとした」人物像を『原敬日記』に記している。
 また、エルヴィン・フォン・ベルツは、欧米風の自由な生活を送る皇太子を好感を持って記している。

 大正天皇の人物像は、病弱、内向的な性格かと思いきや、チャートは破天荒でもあり、木星のアスペクトのある人は、たいていそうなのだが、人当たりがよく、明るい気質で前向き。 大正天皇はもっとも人間らしい延納だったという記述がされているのも、
 こうして辿ってくると、本当に例外的に、生まれた奇跡の皇子だったのかもしれない..という気がする。
 
 大正天皇の生まれのチャートは、ほかに水瓶座の月と獅子座水星のオポジションにTスクエアで牡牛座の冥王星がアスペクト。月は、個人的な感情や母、そしてプライベートの象徴で、冥王星のスクエアは、
 5ハウスの楽しみを司る部屋にある水瓶座の月は、好奇心旺盛で、
冥王星のある8ハウスは、蠍座の司る部屋でテーマは性や死と再生。そこに冥王星が月にスクエアというのは、逃れられない宿命や、何度も生死を彷徨うような、ハードな体験、たとえば、自我が崩壊するようなアイデンティティクライシス、や逃れられぬ関わり、しかも集団的な作用を担っているために、乗り越えないことには使い物にならないような、きついプロセスを克服することで、成長を遂げる。
 あのハードな生い立ちも、病弱な身体や、孤独な環境も、意志とは無縁のところで、成長のために用意されていた宿命...という感じがします。

 本来安心や保護をもたらす月が、0~7歳までの年齢域を司る月が激しく傷つけられるので、絶望のアスペクトとも呼ばれる。幼少の頃に、人より達観せざるをえない状況に向き合い、キツイ環境から逃げることもできず、そのまま吸収されていく。

 オラは、自分も月と冥王星のスクエアをもってるので、母性とか信じてないんだな。本質的に、母性は与えるものでもあり、奪うものでもあることを知っている。 その本質は、月はけっして優しい存在ではないということを、依存対象としてはならないことを、学ばされるのだ。しかし、それは、母性の否定ではなく、そうしたエネルギーを持つものであることを知覚することで、振り回されなくなる。いやでも自立させられる、そういうアスペクトで、 それを補うアスペクトが形成されている場合は、他からのサポートがあり月を保護する。たとえば、木星が吉角度でとっているとか、感情保護された場合は、損なわれても補われるけれど
 大正天皇の場合は、水星にオポジションで、木星は魚座でも10度も離れているので、幼少期は、大変な孤独のなかで、成長されたことがうかがえる。

 水星は、初等教育を表すけれど、これも冥王星のスクエア...。これは、偏りや、集中化の妨げになりやすく、暗愚とされたのも、身体的な理由だけでなく、後天的に強化されるまで、おそらく使えなかったのではないかと思われる。しかし、興味や関心のあることには没入していくため、一芸に秀でた人物になりやすい。偏りとは、すなわち突出するという意味でもあるから...。


 話が戻ってしまっていたので、本道に戻すと

 嘉仁親王(大正天皇)は1900年(明治33年)にご結婚。
 結婚後は父の明治天皇とは対照的に側室を置かず一夫一妻を貫き、子煩悩で家庭的な一面を見せたという
(大正天皇と節子は幸いなことに4人の男子に恵まれたため側室は必要なかったとはいえ)。
 皇室における側室の制度が法的に廃止されたのは後の昭和天皇の時代であったが、
 側室そのものを、事実上最初に廃止したのは大正天皇であった。

 大正天皇は、明治以降の皇室で初の一夫一妻制を採り、また誕生から即位を経て崩御まで生涯を通じて関東の地で過ごした最初の天皇である
 (ただし即位の礼などは京都出身である父・明治天皇と同様、京都御所で挙行した)。




 そして、運命の時が動き出すように、大きな変化が到来したのは

 1912年(明治45年/大正元年)7月30日、明治天皇崩御を受けて、第123代天皇に践祚し、改元の詔書を公布、即日施行して、同日は大正元年7月30日となった。「大正」元号の誕生である。

 大正天皇即位のこの日、木星は、出生の太陽、木星のオポジションにTスクエア。プログレスの月(一日一年法)の月は7ハウス。


 このプログレスというのは、生まれた日から数えて、1年を1日として換算する手法で、
月のプログレスは、約28年でホロスコープを1周します。ひと星座を約2年半で移動。
 プログレスの月がサインやハウスを変えるとき、そのハウスのテーマがその時の人生上のテーマとしてあらわれます。
 1ハウスは、再誕生、リスタートのハウスであり、そこから半周する7ハウスは、それまでに培ってきたもの磨き上げてきたものを社会的に発揮していく、社会生活のスタートの部屋でもあり。だいたいプログレスの月が7ハウスになるときは、社会的なデビュー、仕事では発展の上り坂の、10ハウスの頂点を極めるまで右肩上がりのラインに乗ります。 なので、大正天皇の天皇即位がこの7ハウスのPの月...なるほど、な。と思いました。

 ちなみに「プログレスの太陽」は、1年で1度、30年で約30度進行します。人生を長く生きるほど、生まれあ星座を越えて、次の星座のテーマ、さらにその次の星座と先へ進むため、目指す方向や価値観の大きな変容として現れたりします。

 本道に戻って、

 
「大正」の元号の名前の由来は『易経』彖伝・臨卦の「大亨以正、天之道也」
 (大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり)から名づけられたもの。
 「大正」は過去に4回候補に上がったが、5回目で採用された。まるで時機を待っていたかのように...。


さらに解説すると

 * 『易経』彖伝..臨は、「地沢臨」世に挑む という卦である。

原文は
「臨、元亨。利貞。至于八月有凶。象曰、臨剛侵而長、説而準、剛中而応、大亨以正、天之道也。」
         
 臨の卦は、剛陽の気がしだいに盛んになり、上下親しみあって、悦び従う状態をあらわす。
 天道にかなって、大いに伸び栄える。変わることなく志操を守ってゆけば、万事順調。
 しかし、物盛んなれば必ず衰う。中秋八月、陽気衰退のときに至れば、凶へ転ずる。
 凶あらんとは、消ゆること久しからざるなり。象に曰く、沢上にある地は臨なり。
 君子もって教思すること窮まりなく、民を容保することかぎりなし。

 この後につづく、初九、咸臨。貞吉。....
  という「咸臨」は、万延元年(1860年)、日本人が初めて太平洋横断を成し遂げた咸臨丸(艦長は勝海舟) の船名の名づけの由来。

 ふと、、世に挑む臨の卦から名付けられたものへの思いを...深く感じ、
 島国日本にとっては、この 臨の卦は、とても重要なのかもしれない、と思い明記しました。
 開国は臨..そう思うとなるほどな..と思い、書いたほうがより深まる気がしたのら。


 そして、大正天皇のプログレスの7ハウスの月は、まさに世に挑む...そういう時期と見事に重なっていることにも、符号を感じた。



 しかしながら
 大正時代は(年数が大正元年~大正15年の15年間で、期間は1912年~1926年の14年間)で日本史で一番短い時代区分である。それでいて、日本が初めて、世界と同期したといわれているのがこの大正時代。

 しかも
 1912年(大正元年)は辛亥革命が終わって中華民国が成立した年で、「民国N年」が「大正N年」に当たる。また金日成が誕生した年であり、「主体N年」も「大正N年」に当たる。

 大正の元号チャートを載せてなかったけれど、この時代、の空気をかの国が有しているのも、なるほどなぁ...と思ったり。


 しかし、ともかく スタートは順調ではなかった。

 践祚直後に起こった大正政変では、天皇の詔勅を利用して反対勢力を押さえ込もうとする桂太郎の言うがままに詔勅を次々と渙発した。
 立憲君主制とはいえ、父・明治天皇と異なり政治的な判断が不得手であることが国民の目からも明らかとなった。

 元々政変向きのチャートで政治向きではない生まれだから、仕方ない..と思うけど

 践祚後は、全く自由の許されない超過密スケジュールで、極度に多忙な日々を送ることとなる。
 そうした渦中の、1913年(大正2年)5月には肺炎で一時重体に陥り、全快まで約1ヶ月を要した。
 チャート的には、トランシットの冥王星は月とトライン、木星はIC。致命的な感じでない。牡羊座の火星の6ハウス入りは、健康にとって、ハードワークや過労がたたって、不具合を生じた感じ。

 その後は葉山御用邸および日光田母沢御用邸で静養に務めた。この夏を境に、定期的に御用邸での静養が取り入れられた。


 ハードワークに耐えられるような身体では元々なかった大正天皇。即位の礼は1914年(大正3年)に行われる予定であったが、妻・貞明皇后の第四子懐妊(後の三笠宮崇仁親王)により1年延期となり、1915年(大正4年)に京都御所で行われた。


 そしてこの年
 1914年7月 オーストリア、セルビアに宣戦布告。第一次世界大戦勃発。大隈内閣、日英同盟を理由に対独宣戦布告。日本は第一次世界大戦へ参戦へ...。

 元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦した。本土や植民地が被害を被ることこそなかったものの、連合国の要請を受けてヨーロッパにも派兵し多数の戦死者を出した結果、戦勝国の一員となった。

 発生直後こそは世界的規模への拡大に対する混乱から一時恐慌寸前にまで陥ったが、やがて戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本と米国の両新興国家が物資の生産拠点として貿易を加速させ、日本経済は空前の好景気となり、大きく経済を発展させた。
 特に世界的に品不足となった影響で繊維(紡績産業・漁網製造産業)などの軽工業や造船業・製鉄業など重工業が飛躍的に発展して、後進的な未発達産業であった化学工業も最大の輸入先であるドイツとの交戦によって自国による生産が必要とされて、一気に近代化が進んだ。
 こうした中で多数の「成金」が出現し。政府財政も日露戦争以来続いた財政難を克服することに成功する。


 大正の時代とともにはじまった激動は、勢いさらに増していく。


 1917年(大正6年)には、立憲政友会などの政党政治に反対する山縣有朋への反感から枢密院議長の辞任を迫り、初代朝鮮総督の寺内正毅首相率いる寺内内閣がそれを押しとどめる事件も起きている。

 そうした政治情勢の狭間で、大正天皇は
 御用邸での休暇時には、ヨット、乗馬や漢詩作りに癒しを求めていく。
 だが、第一次世界大戦による国際情勢とその中における日本の立場の大きな変化は、僅かばかり残された天皇の自由をさらに奪っていくことになる....。

 心中はいかほどだったろう...父上である明治天皇に遠く及ばない体力と政治力、そのうえ、明治以上のスピードで変わりゆく世界。明治は、牡牛座冥王星時代だったけれど、大正時代は冥王星は双子座を進行、天王星が水瓶座に守護星座回帰した時期にはじまっている。
 文明化の躍進的な大発展と、産業化、文化のすべてが。より一層洗練されていったこの時代、強烈な加速と反比例するように、大正天皇は、ご自身の大事ななにかを損なっていった感じがする


 1917年(大正6年)頃から、公務や心労が病の悪化に輪をかけ、公務を病欠することが多くなり。
 1919年(大正8年)の年末には食事を摂ることも勅語を音読することもできなくなるほど病状は悪化していた。 1920年(大正9年)3月26日、東京帝国大学教授三浦謹之助は「幼小時の脳膜炎のため(中略)緊張を要する儀式には安静を失い、身体の傾斜をきたし、心身の平衡を保てない」という診断書を提出した。
 これを受けて松方正義内大臣が原敬首相に摂政の設置を提案したが、当面は天皇の病状を公表して関係者や国民の心の準備を待つこととした。

 そしてこの間、さきにも書いたけれど 1918年(大正7年)11月11日に第一次世界大戦が終結し、
 日本は連合国の一国「五大国」として戦勝国の一員となった。 列強入りした明治からさらなる成長を遂げた。

 ついでに
大正デモクラシー時代は、1918年(大正7年)の米騒動の前と後で分けられることが多いが、米騒動後同年に初めて爵位を持たず、衆議院に議席を持つ平民の原敬(平民宰相とあだ名された)が日本初の本格的な政党内閣を組織。

 日本はその後のパリ講和会議にも参加し、国際連盟常任理事国の地位を得るなど、アジア・太平洋地域での自国の権益を拡大していった。

 そうした背景のなか、摂政設置の動きが活発化するのは翌1921年(大正10年)半ば。
 原首相や山縣元老を中心に根回しが行われ、政府内の了解が固まり。10月4日に宮内省(現在の宮内庁)から「快方に向かう見込みがない」旨の病状発表がなされた後に、
各宮家から了解を取り、10月27日には松方内大臣が大正天皇と当時20歳だった長男の皇太子裕仁親王(昭和天皇)の承諾を得た。

 どんどん切り離されていく大正天皇。それも天の計らいだったのだろうか...という気がしないでもない。


 そしてついに
 1921年(大正10年)11月25日に皇太子裕仁親王が大正天皇の病状悪化によって摂政宮となった。
  (この少し前、同年、11月原敬首相、東京駅頭で暗殺されている。)
 同時に宮内省から『天皇陛下御容體書』が公表されるとともに、出生以来の病歴が別途発表された。
 このため、後々にも「病弱な天皇」として一般に認識されることになった。
 この後、大正天皇が政務に復帰することは無かった。

この同時期、
力強かった時代の明治時代を見直す機運から明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮が建立された。

ここで摂政について注釈
 *【摂政】
   日本史上における摂政とは天皇の勅令を受けて天皇に代わって政務を執ること。
  またその者の職であると定義される。
  日本史上における最初の摂政の事例は、
 『日本書紀』に残る、推古天皇の時の厩戸皇子(聖徳太子)が摂政となったのが起源。
 『日本書紀』の中で神功皇后が執政した時期は「神功皇后摂政紀」と呼ばれているが、
  これは同皇后紀を呼ぶ場合の便宜的な呼称であり、摂政という用語は神功皇后紀の本文中には登場しない。
 以降何人かの皇族が摂政を行ったが、律令において摂政を執る役職は規定されなかった。
  
 しかし、866年に藤原良房が臣下として初めて摂政となって以来、
 天皇の外戚となった藤原氏(藤原北家)の者が摂政・関白に就く例が生まれるようになった。
  
 そして、幼少の天皇には摂政が、成人後の天皇には関白が置かれる慣例が確立したのは
 61代の天皇(朱雀天皇)の在位中に摂政から関白に転じた藤原忠平が初例であるとされている。


 諸外国では、
  摂政(Regent)は、君主制のなかで、君主がその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、
   君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のこと。
  多くの場合、君主の後継者(皇太子など)兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任した。



 大正天皇が実質的に政治的に表舞台に立つことは、皆無だったのではなかろうか...と思う。
 生まれながらに象徴天皇だったのは、この方ではなかろうか。
 そして、もっとも人間的な天皇だったと、明治、大正、昭和と天皇の身近で侍従をしてきた坊城氏は、のこしている。

 人は、表面にあらわれた事象しか判断できない。大きな流れのなかで、日本の根幹に、深く痛みを感じながらお過ごしになっていたことなど、この時代の人たちも到底考えもしなかっただろうし。たいてい、歴史の裏舞台は、表が激しく華々しいほど、とてつもない犠牲を払っていたりする...。

 言葉に詰まるくらい、教科書に書かれていた大正天皇とこうして感じ取ってきた人物像には隔たりがある気がするのはオラだけではないだろう。




 大正天皇が政務から離れた翌年、
 1922年(大正11年)4月にイギリスのエドワード王太子(後の国王エドワード8世(後のウインザー侯爵)が
プリンス・オブ・ウェールズとして来日した。
 裕仁親王(後:昭和天皇)の訪欧の返礼としての日本訪問であった。
 滞在は、1か月近くに及んだが、天皇の病状を憚った日本側は天皇と英国王太子の面会を設定しなかった。


 この時代、生きてたら、ご尊顔を拝みに行きたかったにゃ~(;・∀・)あああああ というオラの叫びはおいといて。

 病状は芳しくない状況のなか。6月20日には長男の皇太子と久邇宮家の良子女王(香淳皇后)の婚姻の勅許を下している。


 この年(1922年)は、世界では、イタリアでムッソリーニのファシスト党によるローマ進軍。ムッソリーニ内閣成立。モスクワにて第一回ソビエト大会。ソビエト連邦成立した年である。


そして、
 1923年(大正12年)9月、関東大震災。が突発。南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害である。

 この時、トランシットの土星がタイトに大正天皇のASCにあり、出生の土星とオポジション。
トランシットの天王星が出生の天王星にオポジション。
 ミッドライフクライシスのど真ん中..。それも最期とトドメの土星のハーフリターン。
そうとう、きつかったと思われる。
 トランシット上では、蠍座木星と、魚座天王星、蟹座冥王星がグランドトラインを形成。蟹座の冥王星は、地盤から揺るがす。
 
水の大三角での大惨事は、相当もってかれるんだな..っていうのは、個人感想だけど、規模が大きく死者数も近年数字を訂正されたとはいえ、10万人をこえている。 まるで、奪ってきた命を贖っているかのよう


 激甚災害であったため、首都機能はダウン、治安悪化に伴い、戒厳令も出された。 

 当然、復興には莫大な財が必要になる。


 震災の混乱で
 金融の停滞で震災手形が発生し、緊急勅令によるモラトリアムを与えた。
 復興には相当額の外債が注入されたが、その半分は、火力発電の導入期にあった電力事業に費やされた。
そして
 モルガン商会(モルガン財閥)は1931年(昭和6年)までに占めて10億円を超える震災善後処理公債を引き受けたが、その額は当時の日本の年度別の国家予算の6割を超えるものだった。引受にはロスチャイルドも参加した。金策には森賢吾が極秘で奔走した。

 日英同盟の頃から政府は資金繰りに苦慮していたが、特にこの復興事業は国債・社債両面での対外債務を急増させた。また震災不況から昭和金融恐慌(1927年(昭和2年)3月~)、1930年(昭和5年)行われた金解禁はそして世界恐慌(昭和恐慌)に至る厳しい経済環境下で悪影響が大きかったため、翌年には金輸出(再)禁止になった。


 関東大震災は、その後の日本を変えた歴史的事象。まもなく100年が経過する。防災の日は、この関東大震災の起こった日にちから生まれた。


 最初に、大正元号のところで、臨の卦を、最期まで書いたのは、まるで、、まるで、先を暗示していたように思われたからだ。



 そして大正天皇は、

 1925年(大正14年)5月10日には結婚満25年の節目を迎え、久々に謁見所に出御、皇族総代、加藤高明内閣総理大臣、濱尾新枢密院議長から祝福を受けている。
 同年12月19日に重度の脳貧血の発作を起こし、貞明皇后も驚愕、翌日未明まで看病を続けたが、この心労で皇后も体調を崩し、半月ほど寝込むほどであった。これ以降、天皇は4ヶ月に渡り、ほぼ寝たきりとなった。

 1926年(大正15年)5月8日には病床を離れ、歩行も可能となったが、同月11日には再度脳貧血の発作が見られ、病床に就いた。
 8月10日、天皇は帯で縛りつけられるようにして車に乗せられ葉山へ向かったとされる。
 その後も、天皇の病状悪化はとどまらず、言語障害、記憶障害、歩行困難に加えて神経痛も進み、手の指を自由に曲げるのも不可能な状態になっていた。

 その後、日光・沼津の各御用邸で転地療養を続けた後、1926年(大正15年)8月10日に葉山の御用邸に転地。

しばらくは病状が落ち着いていたが、9月11日に脳貧血の発作を再発、10月下旬には食欲が減退、気管支炎の症状もみせ、日中でも寝ていることが増えてきた。

 やがて流動食しかとれなくなり。12月8日には再び気管支炎が悪化、体温上昇も著しくなり、翌日以降も症状は改善せず、病床で療養する日々が続いた。


 このようななか、宮内省から『天皇陛下御異例』と言う見出しで病状経過の発表があったのが、12月15日であった。同時に9月11日に「脳貧血の御症状」を再発、10月27日から「御睡眠勝ちにして御食気減少」し、11月14日以降は「軽微なる御せきおよび少量の御かく痰あらせら」れ、12月に入ると「御体温昇騰し御脈拍御呼吸数とも増進」したことが明かされた。その翌日12月16日には「天皇御病状頗る重篤」に陥り、各皇族、王族、元帥、閣僚らが続々と参邸する事態となった。


 東京日日新聞など新聞各紙は16日以降、連日、号外を出して一進一退する天皇の病状を伝えた。しかし、24日、冬の陽光に包まれていた葉山御用邸は午後から厚い雲に覆われ、いつしか雪も舞い始め、雷鳴も響いた。


 1926年12月25日午前1時25分、静養中の葉山御用邸において、長く会えなかった実母・柳原愛子(二位局)の手を握ったまま、心臓麻痺により崩御。宝算47。
 臨終の床に生母を呼んだのは妻・貞明皇后の配慮だったという。
1927年(昭和2年)、大正天皇の大喪
 崩御後には「大正天皇」と追号され、1927年(昭和2年)2月8日、天皇として史上初めて、関東の地にある多摩陵



 大正天皇の逝去の時のチャートは、MCにピッタリ蟹座の冥王星が重なっており、水瓶座の木星が出生の月に、これもタイトにコンジャンクション。

 出生でMC(天頂)に冥王星の場合は名声や権力を表す
 けれど、出生のMCにトランシットの冥王星がコンジャンクションする場合、
 それは、社会的な頂上、社会的な使命の達成ポイントで、死と再生が起こる
 文字通り、大正天皇は天に召されてしまった。
 それまでのお役を終えて、完全コンプで全うされた。そういう事象。
 そして、月の木星は、身体的には闘病のなかで、もうほとんど意識も残っていたかわからないけれど
生母の愛子さんに手をとられ、愛する皇后とご家族だけに囲まれて、愛に満たされた状況のなかで迎えられた死であったと思います。

 幸運な死....それは個々によってそのイメージも欲しているものも当然異なるのだけれど。
大正天皇は、ずっと母のあたたかみを知らず、安心のない状況でお育ちになり、帝位を継承してからも
政治では蚊帳の外、どこにも安寧などあらせられなかったと思われるけれど
 愛妻家を地で歩まれたように、愛する者を大切に思うお気持ちは人一倍お強かったのではないかと思う。

 大正天皇臨終の際、母である柳原愛子は鎌倉の別宅から毎日葉山へ看病に通い、皇后は「何をおいても御病室に通せ」と女官に命じていた。このとき病室へ入れたのは、皇后の意思により看護の者を除いては皇后と皇太子夫妻、直宮たちと柳原愛子のみであった。
 病人の妻子と実母のみの病室であった。と当時の記録では綴られている....。


 大正時代は近代日本にとって、世界と肩を並べる、本当に大躍進の時代でした。
 時代背景は、本当にたくさん、とても15年(西暦では14年)の間に起きたとは思えない、newsは盛りだくさんありましたが、それはまた、別件で、元号チャートを書くことがあったら、解説しようと思い割愛しました。

 思うところは、たくさんあり、書ききれていないこともありますが、
 みなさんのなかで思う 大正時代、そして大正天皇になにかを添えられていたら幸いです



添付の画像は、大正天皇の出生チャート、大正天皇御即位、関東大震災、大正天皇崩御、結婚の儀に臨む皇太子嘉仁親王(大正天皇)


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