http://ironna.jp/article/13835?fbclid=IwAR3XwecWW6-w68C1WCvlo6Bby4UToPROm9cCbS-a5B3xYkPBX2Ufan5N_vU
↑ 上の記事は
「死者300人」イラクデモを報じない日本はどうかしている
↑ というものそれについて思うこと書いた
↓↓↓
傀儡政府作ったから
アメリカ撤退した
最初からそれ狙いだった
いまだに軍事基地は置いてるわけで
あとは放置
アメリカに介入された国で
幸せになった国はないだよ
日本では 中東情勢はほとんど報道されない
湾岸戦争のときでもそうだった
米からいただいた
情報をそのまま流すだけ
貿易国でもあったのに
見殺しにした
イラクとイランの間は
それこそ4000年以上前から確執がある
(イランがプロトエラムの時代から..)
難しい関係でありながら
交易もおこなってきた
複雑な背景がある
それはともかく
イラクが貧しくなったのは
湾岸戦争で ダメージを与えられ
ふつうの暮らしを奪われた
イラクで起きてる デモは
香港など 消し飛ぶくらい
大規模で 壮絶
学生のごっこじゃない
本当に
イラクの デモ参加者の
年齢構成は12歳から60歳ぐらいまでと幅広い
本当に市民運動で 死活問題がかかっている
自由主義とか民主運動とかいうイデオロギーではなく
日本でいえば
かつて一揆が起きたときのように
本当に生活苦に陥り
明日が見えないからのもの
こうした
本物の 民間のデモを報道しない理由は
気づかせたくないモノがありすぎるからだろう
と穿ってしかみれない
日本にとっては
宗主国に 搾取され それを維持する ぶら下がりの
中核に 占拠され
還元されないシステムを やすやすと構築されながら
いまだに
寝ぼけた人達が大半だから. .
日本の
報道はすべて 意図的なもので
ジャーナリストも存在しない
金で買われた有識者が
信じられないことを口にしていたりする
本当に 非道で酷い状況のなかにいても
慣らされてしまった 国民性は
遠い場所で起きてることだけじゃなく
身近迫ってくる問題にさえ
まるでないかのように
漫然と 暮らす
イラクほどではない
この記事にもある イランでのデモは
報道もされた 少しだけ
国とは その地にある民族や生活者の総体で
国家と書くように
ホーム
日本は
民族意識もバラバラにされ 傀儡政権ほど
支持率が高い
本当に 世界のなかで
異常な国でもある
高年層に対して
これまでも 失礼極まりない発言をしてきた
どうしようもない
あの層が 本当に邪魔でしかないからだ
社会は共有されている
愚民の集団の 最たる高齢層
利益や損得でしか 心が動かない
あの層が 大きな障害で
中高年は組織から排除といいながら
それよりずっと 高齢な
なにもしない無能な肩書きだけの人間が
搾取構造を手放さない
ああいうのを叩き出すべきだとおもっている
システムの再構築に
もっとも 不要な人達で
無関心な 大多数
スンニ派もシーア派も関係ないとこで
起きているイラクデモは
歴史的にも なかったことだ
そもそもイスラム教誕生背景は
宗教が先ではなく
人心掌握で 民族意識をまとめるために
利用した
背景は コンスタンティヌスがキリスト教を利用したのとおなじようなもの
ここで
ほとんどの人が関心のない
イラクの歴史を簡略的に時系列をおって書くいておく
イラクで最初に文明社会がはじまったのは
はるか昔
紀元前8000年ごろ
北メソポタミア(現イラクの北部)で起きた
正確には旧石器時代から書いた方がいいのかもだけど
シリアやヨルダン川流域に存在した
ナトゥーフィアン(ナトゥーフ)という文化では
紀元前11000年ごろから前8300年代にかけて
定住的狩猟採集社会があった
リュネイという三日月形の細石器が主体で用いられ
前半期は大型であったものの
後半期には小型化し両面加工が主流になった
穀物収穫具として使用が高まったとされている
この付近を書くと
長くなるので
新石器時代から書くけど
紀元前8000年前に 集落や小社会が存在した北メソポタミアではシリア方面から伝搬した農耕も定着していったのは
紀元前9000年紀ごろにはじまった気候の乾燥と寒冷化のためで、人口増にともない資源ストレスが高まり
植物栽培を開始していった
栽培植物の痕跡がみつかったのが
この紀元前8000年紀の地層から
北レヴァントへと広がった
この時期も細かくかくとわかれるので分布も端折る
とりあえず 拡散していった
人物塑像が生まれたのもこの頃
北メソポタミア
生まれた小社会は
南部メソポタミアで 大きく花開く
栽培がはじまってから随分経過し
社会システムもより細密になっていった
ティグリス川上流で前6000年紀のサマッラ文化
で灌漑農耕がうまれ
南部の乾燥地帯でも 安定した収穫をえることが可能になったおかげで
ユーフラテス川下流域ではウバイド期がはじまった
代表的な遺跡はエリドゥで
シュメール人が構築した
最初の王権がくだった地でもある
楔形文字も誕生し 大きく栄えた
紀元前3000年紀には
大洪水神話に残るように
大規模洪水で 消失した都市も存在する
これはもっと書きたい
だけど
どんどんそれるから
はしょろう
ウルク期やジェムデト・ナスル期がだいたいこのくらいの紀元前3000年前後
北メソポタミアはニネヴェ期に入り
南メソポタミアは初代王朝期が
紀元前2500年くらいまで つづく
なぜ 北と南でわけてるかといえば
まったく 文化が異なるからであり
民族もことなる
メソポタミアは多民族国家が大半だけど
文化性の違いは
いまにも残っているように
別物でもあるから
こういうのは 学校では習わないから
一緒くたにされている 信じられないほど
いい加減な歴史を学ばされたことにも
思うこといっぱいあるけど
南はアッカド時代とウル第3王朝時代があり
アッカドは この先公用語として古代オリエント社会で
ひろく定着していった
シュメール語とも異なる
紀元前2000年頃は古代バビロニア時代
(イシン・ラルサ時代とも表記される)
いわゆるバビロン第1王朝時代
紀元前1600年頃から紀元前5、600年くらいまでは
中期バビロニア時代(カッシート時代と文化では呼ばれる)
後半期はイシン第2王朝時代で
新アッシリア時代(割愛した北部の歴史、古アッシリア時代、ミタンニ王国時代、中期アッシリア時代)をへて
新アッシリア時代に突入
紀元前728年 馬に引かせた戦車、鉄製の武器を手にした
アッシリア人によってアモリ人は絶滅バビロンは焦土と化して
ようは統一されたのだ
この新アッシリアの後に紀元前500年前後に新バビロニア時代がわずかに存在した
アッシリア人の都市ニネヴェは
メディア人の襲撃をうけて
廃墟と化した
そこを再建したのはカルデア人で
再建されたバビロンは ニネヴェより70年ながくつづいたものの
キュロス大王によって滅ぼされ
ネブカドネザル王の空中庭園(世にいうバビロンの空中庭園は正確にはニネヴェに存在した)は炎上した
多くの民族が わずか2000年のあいだに
蹂躙してきた
まずはシュメールを荒らした 野蛮なグッティ人
カッシート人、バビロンを略奪したヒッタイト人、
ミタンニ、(ミタンニはインドアーリア語派属が支配層だったフルリ人が建国した)
そしてエラム人(現イラン)は 古くから シュメールの地へ侵略しては略奪、そして報復を繰り返した
そしてこの後も
紀元前539年 キュロス大王がバビロンを占領して以来、1000年以上にわたって イラクは
ある時は 巨大帝国の一属州として、
またある時は 大国間同士の戦場として、
外国勢力の支配下に置かれた
ローマ時代のパルティアは
パルティアはそもそもイランの王朝
支配勢力は短命だったけれど..
蹂躙した民族はペルシア人、ギリシア人(アレクサンドロス)、セレウコス人、パルティア人、ローマ人、そしてふたたびペルシア人が
この地を保持、あるいか緩衝地として
また他国からの奪取を目指して兵を進めた(ローマ皇帝トラヤヌス自ら出兵)
ここかくと長いので簡略すぎて申し訳ないけど
書きたいことはいっぱいあるけど
がまん
西暦7世紀初頭、征服によって波紋上に支配勢力を
ひろげていったアラブ人が
砂漠からイラクを侵略した..
動機は略奪が目的でもあったものの
彼らは
226年~651年まで続いた
サーサーン朝ペルシア 属していた
現イラクの地への侵攻は成功した
彼らの新しい宗教であるイスラム教のもと
進軍したアラブ人は
遊牧民の諸部族は 信仰つながりで結びついていき
先住民族に 受容されたところもあてば 仕方なく受け入れていった地もあった
ここでイスラム教について
イスラム教は、唯一絶対の神(アッラー)信仰し、
神が最後の預言者を通じて人々に下したとされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教で
ユダヤ教やキリスト教の影響を受けた唯一神教であり
偶像崇拝を徹底的に排除し、
神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点が大きな特色でもある
イスラム教の始原は
西暦610年頃、ムハンマドはメッカ郊外で天使ジブリールより唯一神(アッラーフ)の啓示を受けたと宣言し
アラビア半島でイスラーム教を始めた
当初は、メッカは人口一万人ほどの街で、
そのうちムハンマドの教えを信じた者は男女合わせて200人ほどに過ぎなかったという...
619年に妻と、イスラム教徒にはならなかったが強力な擁護者であった叔父が他界すると、
ムハンマドはメッカの中で後ろ盾を失い、批判は迫害へと変わった。
そのため、622年、成年男子七十名、他に女子供数十名をヤスリブ(のちのマディーナ(メディナ))に先に移住させ、自身も夜陰に紛れメッカを脱出し、拠点を移した。これをヒジュラ(聖遷)と言い、以後、彼らはメッカと対立する
マディーナでは、ムハンマドはウンマと呼ばれる共同体を作り、これは従来のアラビアの部族共同体とは性格を異にする宗教的繋がりであったが、同時に政治・商業的性格をも持っていた。
現地のユダヤ人とも対立し
それは後には戦闘を含む規模にまで激化し、そのためムハンマドは教義を一部変更し、当初はユダヤ教の習慣に倣って、イスラム教徒もエルサレムに向けて礼拝していたところを、対立たけなわの頃からメッカのカーバ神殿へと拝む方角を変えた (ある意味...信仰とはいったい...と言いたくもなるけど 教祖絶対なのだ (嫌味です))
ある時、ムハンマドはメッカの千頭ものラクダを連れた大規模な隊商を発見し、上述の70人とメディナで得た200人ほどの支援者と共にこれを襲おうとしたが、メッカ側も危機を察し、950名を派遣して、バドルで激突した
これが624年9月のことであり、ムハンマド側が勝利すると、これを記念して、以後、イスラム教徒はこの月になると、毎年断食をするようになった....(ラマダーンのはじまりである)
この後もメッカや近隣のユダヤ人との攻防勝敗を繰り返しながら、ムハンマドは周辺のアラブ人たちを次第に支配下に収め、630年ついにメッカを占領
カーバ神殿にあったあらゆる偶像を破壊して、
そこを聖地とした
そして、メッカを占領する頃になるとムハンマド達は一万人の軍を組織できるようになっていたのだが
しかし、
このムハンマドを巡る抗争で弱り切ったメッカを背後から襲おうと、南ヒジャーズ地方の人々一万人が武装して、メッカ近郊に待機していた
メッカを手に入れると、直後にムハンマドはこれらを襲撃、大破したものの、
アラビア半島で万単位の軍が激突することは、
実に....数百年来なかった大事件でもあった
このため、ムハンマドの勇姿は瞬く間にアラビア中に広まり、以後、全アラビアの指導者たちがムハンマドの下に使節を送ってくるようになった
こうして、イスラム教はアラビア中に伝播した
(この当時、東ローマ軍の侵攻で、近隣のササン朝ペルシア帝国が衰退していた時期でもあり、それもこうした動きに拍車をかけた)
この新興勢力が 現イラクに押し入ってきたわけだけど
新政権は占領地を占有したものの
彼らの統治を認める人達からは
その所有権を奪わなかった
そして、アラブ人は決してイスラム教への改宗を推し進める狂信者ではなかった
彼らはイスラム教を 彼らに...アラブ人に与えられた特権と見なしていた
初めはアラブ人との契約による主従関係、養子縁組などによりアラブ人の一族と見なされる者以外の改宗を認めなかった
改宗を認められた非アラブ人は「 マワーリー」と呼ばれていた
イスラム教徒ではない人々は人頭税を払い、集団改宗は奨励されなかった
その後 160年間
イラクはアラブ帝国の一州で、第4代目カリフのアリーがクーファから短期統治していた時期をのぞき、
最初はヒジャーズのマディーナ(現メディナ)、継いでダマスカスの統治下にあった
この期間に アラブ人は都市を基盤とする
軍人貴族階級を形成
その大部分は 兵士もしくは政府高官や役人で雇われ
彼らは尊大で高圧的であり 地元民を軽視、はっきりいうと軽蔑していた
681年に アリーの息子フサインがカルバラーで虐殺されたあと、
アリーの遺徳とフサインの殉死を哀悼する党派として、
シーア派が生まれた
このシーア派が生まれた時、既成秩序に対する不満を
宗教的な言葉で表現する彼らの党是は
イラクのマワーリー(改宗組の非アラブ人)の心を打ったのである
アッバース朝カリフがイラクで王朝を興し
750年にバクダット新しい首都にしたとき
ムスリムである彼の帝国は
もはや 真の意味でアラブ国とはいえないものとなっていた
ハールン・ラシード( 第5代カリフ、アラビアンナイトに偉大なる支配者として登場する)のような
豪奢な宮廷生活、煌びやかな衣装、凝った儀礼作法、儀式や宦官、宮廷官職や死刑執行人にいたるまで
ヒジャーズ地方で初期のカリフたちが
生活した簡素極まりない暮らしとは
天と地ほどかけ離れたものだった
アッバース朝カリフ時代は500年続き、初期の王朝の栄光や栄華は後代の混沌に沈みこみ、
最後のカリフはフラグ(チンギス・カンの孫)が
バクダットを占領した1258年に殺された
カリフの亡骸は蒙古軍がこの地を強奪したときに
殲滅された80万人ともいわれる人々のうちの1人となった
1401年、バクダットは再び略奪された
この時の征服者は強大な蒙古軍の最後の将軍タメルラン
虐殺された数は前回より被害は少なかったのは
すでに この地では人口が減少していたからで
タメルランの征服のあと
今度はトルクメン人が来訪し
アクコユンル(白羊朝)、つぎにカラコユンル(黒羊朝)
を形成、
その後、1509年にペルシア人、1534年にはオスマントルコ人が侵攻してきた
オスマントルコはこの後、第一次世界大戦中に
英国に追い出されるまで
イラクの地を支配した
この頃には、すでにイラクの小都市の多くは崩壊寸前でもあった
振り返ること
シュメール時代には
数千年にわたって、イラクは都市国家として
安定した政治と 爆発的に増加した農業収穫で大発展していた
交易も盛んで、現代における文明社会の祖でもある
さくっと書いたけれど
次次にやってきた征服者たちは
こぞって都市を略奪し 住民を虐殺したけれど
蒙古軍が襲来するまでは
常に新しい都市を再建し 以前からあった文明に
新しいものを注ぎ込み積み重ねていった
このイラクの地に生まれた灌漑システムに修復不可能な損害を与え、建造物の破壊に虐殺
蒙古軍の去った後
実質的な再建を行えるほどの生存者はいなかった
貴重な水門や灌漑システムの破壊は
湿地帯を拡大
ユーフラテス川沿岸部では細々とした
農業
残存したものの
荒れ果てた農業地帯は砂漠化
あんなに盛んだった農業が衰退した原因は
こういう背景があり
農業国をやめて牧畜国にかわっていった
歴史では 遊牧民が先とまなんだ人達は多いと思う
けれど実際は
農地を失い 放牧民となるしかなかった
世界的な最古の都市国家の終焉は
人的な破壊により 修復不可能になり
現在へといたっている
長くなってしまったけれど
イラクの歴史を踏まえて
思うことは
この惨状を 知ってほしい
少しでも
本当は イラン・イラク戦争や湾岸戦争、そしてその後も書こうともおもったけど
前にも書いたことあるので (ブログの過去記事に載ってます)
書いてなかったことを 時系列で書いたとです
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