★鬼門決壊





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オトモダチがシェアってたので


これ見るまで知らなかった

マジで大改修工事?
なんでこの時期にやる?
!?工エエェ(゚〇゚ ;)ェエエ工!?って思うだろ

ちょっと信じられない

マトモに考えて

(oдo)アッー!!!!↑
ってならないほうが どうかしてる

311で 東京の アースエネルギーは
かんぜんに変わった
そして 五輪でまた
ずいぶん

細切れのした

最後はこれか!
御都市が堕としに..
っていう一連の準備された流れなのか
としか....いいようがない

そりは
爆あげもし
再開発で どんどん???て
ドドーンという

レイラインももうかつてと違ってきてるから
定着しづらくなってるとはおもうけど

ヒト意識にネットワークがあるように
あちらのもあり
さらに
自然界の 電磁的なネットワークも複数存在し
災害は
とくに地下茎のは
編み模様のようなマトリックス

縦のラインと横のラインがあり
通常は均衡がとれてるだけど

だいたい重要箇所には
要にされてるから

将門塚といえば

日本三大怨霊とかいわれもしてきたけど

そういう扱いじゃ本当はない

呼ばれるようになったのは

「 神田明神」730年に大己貴命(大国様)を祀って、現在の千代田区大手町に創建された

735年から738年にかけて西日本で「天平の疫病大流行」が起きたころ

そして
14世紀初頭、平将門の祟りと云われた疫病が流行
そこで将門を葬った墳墓「将門の首塚」の近くにあった神田明神が、
将門の霊を供養し疫病が沈静化したことから、1309年に平将門を祀った

時は進み、江戸時代に入ると、日本人口は1,200万人を数え更に過密化が進み、
感染症の猛威に晒され続けた

徳川政権下の1603年から1868年までの265年間には、13回もの麻疹大流行が起こり、
1862年に記された記録では1年間での死者は24万人

江戸期を通しての被害はゆうに300万人を超えるだろうと類推されている

江戸時代 将門人気は
そういう時代背景もあり

崇敬篤かった将門神...
変わったのは

明治7年に明治天皇が行幸する際、
天皇が参拝する神社に逆臣の将門が祀られているのはあるまじきこととして祭神から外され

その代わりに少彦名命(恵比寿神)が祀られ、
将門神は境内摂社への左遷

昭和になると将門を祭神に復帰させる嘆願が起き、
NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」が放映される頃には機運が高まり、
昭和59年にめでたく本社復帰

そんな将門の
生まれた

時代は平安時代まで遡る
平安時代後期、当時の地方行政はそれぞれの国司に任されていた
その為、国司は横領など悪事のやり放題であったことから治安も悪化し、
その対処として現れたのが桓武平氏や清和源氏などの武士

戦国時代へ突入していく移行期で

将門の祖父は、上総国の国司として赴任し
任期後も居座り武士団を形成して勢力を拡大していった
だが将門の父の死をきっかけに相続争いが勃発、将門は叔父を殺害し、
従弟の平貞盛の引渡しを断った常陸国府をも攻撃し
勢いに乗じた将門は、他の国府にも次々と攻撃をはじめた

合戦では、反りを持った最初の日本刀を作らせたとも云われる将門の武器力と、
豊富な馬を利用した騎馬隊を駆使した機動力で、
瞬く間に関東八ヶ国の国府を攻撃し、各国司を追放という快進撃で
これが平将門の乱で、私事で始まった戦いが、国家反逆の戦いになり、
その揚句、自ら“新皇”と称して、真っ向朝廷と対立姿勢をうんでいく

逆賊となった将門

京都の天皇に対して自ら新皇と称したため

朝廷は、早速、諸社諸寺に怨敵(将門)退治の祈祷を命じ、
藤原忠文を征東大将軍に任命して将門の乱の鎮圧に向かわせ
その結果、この討伐軍が到着する前に将門は、地元の武士である藤原秀郷等に討たれ

戦いに敗れた将門の身体は、
現在の茨城県坂東市の延命院に埋葬され
首級は平安京に運ばれ都大路の河原にさらされた。
しかし、
無念やるかたない首級は腐りもせず目を見開き、
「胴体と首をつないでもう一戦しよう!」 と、夜な夜な叫んだと云われている

こにあたりは諸説あり
いろんなのが残ってるけど

3日目に首級は、切断された胴体を求めて夜空に舞いあがり、
故郷の東国に向かって飛んでいき、数ヶ所に落ちたとされている
その首級の落ちた最も著名な伝承地が、千代田区大手町にある「将門の首塚」

将門の魂は、無念の気持のまま葬られたとはいえ
しかし
これで

終わったわけではない

一件落着となった将門の乱....
将門のすさまじい怨念は後世まで続き
最初の不可思議な現象は、
関東大震災で全焼した大蔵省庁舎の再建の時
首塚を壊して仮庁舎を建設した僅か2年の間に、
大蔵大臣を始め関係者14名が亡くなり、
それ以外にも多くの怪我人・病人が続出したことから仮庁舎は取り壊されら

次は戦後になり米軍が首塚を取り壊し始めたところ、
重機が横転し運転手が亡くなったことから工事を中止し

更に昭和の高度成長時代、首塚の一部が売却され、
その地に建った日本長期信用銀行の首塚に面した行員が
次々に病気になる事態が発生し、
お祓いしたという

これ以外にも将門の祟りは枚挙に暇がなく、
現在でも隣接するビルは首塚に尻を向けないようにフロアレイアウトされていたり、
首塚を見下ろすようなことのないように窓は設けないなどの配慮がされていると云ったことが実しやかに囁かれ

こうした将門の怨念を、神田明神の祭神となる遥か前から祭神としていたのが「筑土神社」

首級の飛来は怨念の強調で、
実際は将門所縁の者が首桶に首級を納め、
現在の千代田区大手町周辺の観音堂に祀ったのが始まりと云われている

この筑土神社が日本武道館の氏神でもあることは意外と知られておらず、
武道を志す方たちから崇敬されている

ちなみに

将門の乱鎮圧の際に朝廷から怨敵退治の祈祷を命じた諸社諸寺の中には、
成田山新勝寺があり
成田山は、特にこの祈祷を開山起源としていることから

将門とその家来の子孫、そして神田明神や筑土神社の氏子などは、成田山に参拝すると将門の加護が受けられないという伝承から参詣しない人もいるという
また、例年NHK大河ドラマの出演者は、成田山の節分豆まきに参加が有名だけど、将門が主人公のNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』の出演者は豆まきの参加を辞退したという

ハシゴしないほうがいいという意味で書いただけど

レイラインが変わるとき
そして

大量の...が起きるとき
ポータル化する

ポータル化をはじまった
っていうのを
この記事でおもった

( ;∀;)マヂカヨ

さらに
書き加えたいこともあるだけど

書くべきではないかもと思い

これはもう

信じるとか信じないとかでなく

明治期の....
やっぱり
総決算は
逆賊からはじまり
逆賊利用し

逆賊にかえる






本当に改修工事どころか完全撤去して

まさかの
鬼門決壊


!?工エエェ(゚〇゚ ;)ェエエ工!?
って思ったけど

それを
この
グレコン
グレートリセットの

タイミングで.....

身震いというより

本当に終わりなんだな

あこれは人類滅亡とか陰謀とか
そういうくだりではないので

集団幻想の
トーテムには

たくさんあるなかの
それの司ってきた
塚を
消失っていうのは

浄化や昇華ではまったくないから

いうなれば
磁気スポットで

バランスとってた
極点がなくなると

分散分化する



PS 追記

首塚信仰、そして首塚の隣に将門公を祀った神田明神が創建され
その後、将門の兜が戻り、江戸の地に兜神社が建てられ
家康は、将門公が作ろうとしていた江戸の都をリスペクトして、江戸幕府を開闢
当時の江戸は、河が多く水には恵まれていたものの
当然 湿地も多く、大規模な治水工事と灌漑そして開拓と
大規模なインフラ整備のなか

霊的な守護として将門の霊力を借りるべく、7つの社
(神田明神、兜神社、鎧神社、築土神社、水稲荷神社、鳥越神社、将門塚)を、
将門公が信仰していた妙見菩薩のシンボルである北斗七星の形に配置
(将門魔法陣とも呼ばれる)


江戸を物理的な都市計画だけでなく、霊的な防衛機能を備えた都市にした

実際、江戸は栄え、日本の歴史上、最も長い平和な時代となった

いまさらだけど
鬼門とは北東(艮=うしとら:丑と寅のあいだ)の方角のことで
鬼門を恐れる習慣は日本独自の思想である

鬼門には裏鬼門もあり
江戸の三代祭、神田神社の神田祭、浅草寺の三社祭、日枝神社の山王祭は、江戸城の鬼門・裏鬼門を清めるためでもあったという説もある


鬼門と裏鬼門の抑えは江戸の総鎮守...神田神社と日枝神社

こんなの書き始めるとまだまだ書くことあるんだけど

とりあえず

将門塚の意味と謂れ、そしてどういう位置づけであったのかを
知らない人いないと思ってたんだけど
どうもそうでもなく
興味ない方も多いかもだけど


江戸は 幾重にも防護壁を講じて構築された都市で
明治はそれに乗っかった

死しても守護として 徳川家康がなぜ日光東照宮には東照大権現となって
祀られたかを思うと
末代までも自らが最前線となって江戸を守ろうという意志で

そういうご守護をたくさん受けてきた
令和になって
大きく変容していくのは

水神がかかった今度の御代は
根こそぎいくかもな

っていう懸念はあるけど
そういうのは これから顕現してくる

来年は 春分図から非常に 激甚が予想されるので
その直前にこれか~~~~~~
っていう
オラのココロの叫びはきっと 伝わったことだろう


























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